あるべき断絶とあってはならない断絶 その2

左翼・リベラル・保守・右翼という4つの立場において、デモクラシーが健全に機能するためには、左翼とリベラル、保守と右翼に断然があるべきであり、リベラルと保守に断絶があってはならない。

しかし、日本の政治と思想においては、前者の断絶は存在せず、後者に断絶がある。それが日本の不幸だ。

これが昨日の要旨である。

では、そもそも「左翼」「リベラル」「保守」「右翼」とは何か?
左翼がほぼマルキスト及びその亜流を指す点は議論の余地のないところだが、他の3つは極めて多義的である。そこで、「あるべき断絶」という視点からある程度単純化し読み解いてみる。


まず、保守とリベラルは「近代デモクラシーシステム」を肯定する。これに対し左翼と右翼はこれを否定する。

「近代デモクラシーシステム」は以下の3つを基本原理とする。

①権力単位としての国民国家の承認

 リベラルも保守も権力の基本単位として国民国家の存在を承認する。

 これに対し、左翼にとって国民国家は資本家のための暴力装置にすぎずいつの日か倒すべき存在である。また、右翼は国民国家よりも大きな単位の権力主体(例:第3帝国、大東亜共栄圏)を志向する。


②権力の源泉としての「人民=国民」

 国民国家を承認するリベラルや保守にとって、国家の人民=国民こそが権力を正当化する源泉である。

 これに対して左翼は、そもそも国家は倒すべき相手であるから、人民=国民という擬制は成り立たない。
国家の中には「人民」と「人民の敵」が存在し、両者は「国民」として融合しないのである。

 また、右翼にあっては、権力の正当性は「天皇の神聖」や「総統の指導力」そのものから直接導かれる。

③権力主体の無謬性の否定

 デモクラシーシステムにあっては権力の正当性を「人民=国民」に置きながら、それでもなお権力を行使する主体に対し、絶対的な信頼をおくことはしない。それゆえ、権力分立・二院制地方分権等の手法により、特定権力の暴走を防止する。

 これに対し、左翼は「人民の敵」に奉仕する現在の国家権力は全否定するが、ひとたび「人民」による権力が誕生するとこれに全幅の信頼をおく(社会主義国家において共産党は無謬である)。
 また、右翼においても天皇や総統に近接する権力(天皇の軍隊、ナチス親衛隊等)は無謬性を持つ。


 このように見ていくと、たかが国旗や国歌、格差社会をどう捉えるかで、左右両派に別れ、絶対に組んではいけない相手(リベラルにとっての左翼、保守にとっての右翼)と手を握り、権力闘争を繰り広げる我が国の政治や、4つの立場の峻別さえ出来ていない我が国の高齢言論人たちのレベルの低さには、暗澹たる思いを抱かざるを得ない。


 しかし、団塊の世代が現役をリタイアする時代になり、ようやく我々新人類と呼ばれた世代から、本物のリベラリスト保守主義者が登場し始めている。

 次回は、ともに近代デモクラシーを承認しながら、保守とリベラルのどこが違うかを論じたい。ただし、両者に断絶はなく、思想的には連続していることを忘れてはならない。

 それゆえ、両者は常にリスペクトしあい、様々な個別論点について意見交換をし、調和点を探ることができるのである。