あるべき断絶とあってはならない断絶 その3

前回、我々新人類と呼ばれた世代から左翼と断絶した本物のリベラリストや、右翼と断絶した本物の保守が登場しはじめたと書いた。

例えば、前者が内藤朝雄であり、後者が和田秀樹である。

内藤は、現政権を右翼政権として明確に否定する(この認識は私と異なるが)一方で、発展途上国批判を行い、左翼にはこの程度のことがタブーであると挑発する。社民党北朝鮮のエージェントであることも否定しない。

一方和田は、学力低下の根底にある「知的水準の低い者たちに人気のマッタリとして左翼的ムード」に水をぶっ掛けるような論を常に展開しているが、その一方で、(ポーズとは裏腹に)北朝鮮とつながっているとしか考えられない右翼政治家たちを手厳しく批判する。

具体的には彼らの本やブログを呼んでもらうしかないが(内藤の作品数は少ないが難解、和田は作品数が膨大なので読み通すのはつらいと思うが)、彼らが従来の右翼・左翼の枠組みで思考する連中をバカにしていることが理解できるはずだ。


新人類世代以下の世代では、このような反左翼反右翼は当然のスタンス(本人が知的ならば)であり、現在は右翼仲良しクラブに在籍しプリンス扱いを受けている八木秀次でさえ、内心は仲間のバカさ加減にウンザリしているのではないかと推測している。


内藤は、21世紀になっても、左翼と右翼が政治の表舞台に多数存在し、言論空間を牛耳っている現状に強い危機感を抱き、反左翼・反右翼スタンスを取る者を「リベラル」と総称し、その結集を訴える。

私は現在の政治状況・言論状況に対する内藤の危機感・認識には完全に合意するが、それを「リベラル」と呼ぶのは(呼ばれるのは?)、いささかの躊躇を感じる。

そこで、ともに「近代デモクラシーシステム」を是とするリベラルと保守の違いをザックリと記しておく(前回の「あるべき〜 その2」と併読していただければ、一層分かりやすいはずだ)。

1 権力主体として保守もリベラルも「国民国家」を承認するが、保守がそれを情緒の対象と考えるのに対し、リベラルは「国民国家」の道具性に着目する。

 例えば内藤は、国家を水道や道路などのインフラに例え、それを尊重することの重要性や、これを維持するためにリスクを負っている人(自衛官)に対する一定の敬意を肯定するが、インフラに過ぎない「モノ(国家)」に対し過剰な愛情を示す者をフェティシズムと切って捨てる。

 しかし、保守にとって国民国家はインフラの総計以上の価値を有している。

 国民国家(Nation-State)は、NationとStateが融合した概念である。内藤の国家説明はStateの部分だけに着目し、Nationの存在を忘れた論ではないか、と私(森口)などは感じてしまうのである。


2 「権力の正当性」と「権力主体への懐疑」のバランスの違い

 権力の正当性が国民の支持にある点、それでも権力主体に全幅の信頼を寄せるのは危険であり制御が必要である点を承認することは保守もリベラルも同じだが、一般に我が国の保守は前者に力点を置き、リベラルは後者に力点を置く。
 我が国に限定したのは、アメリカでは、これが逆転している(共和党の方が国家権力の民事介入に懐疑的だ)からである。


3 資本主義の積極的承認(保守)か消極的承認(リベラル)
 
4 象徴天皇制の積極的承認(リベラル)か消極的承認(保守)

 ※これはかなり微妙な問題なのでいずれ詳論したい。



 いずれにしても、リベラルと保守の違いは決定的なものではなく(論点によっては日米で逆転しているように)、思想的に連続している上に、特定人物の思想をどちらに分類するかを考えても一義的に決まらない。

 それは保守・リベラルに留まる者に、ある種の「気持ち悪さ」「中途半端さ」を与える。
 
 そして、一義的に物事が決まらない「気持ち悪さ」「中途半端さ」に耐える精神は、近代デモクラシーを是とする者の素養である(なぜなら、近代デモクラシーとは永遠に続く妥協を受け入れるシステムだからである)。

 その素養を持たぬ者が、左翼・右翼に流れていくのだ。

 このように考えると、現在の右翼論客たちのほとんどが、左翼崩れである理由が氷解する。

(以上、敬称略)