噛む犬に共感する必要などない

教育問題に限らず、どんな議論でも二項対立構造でしか理解できない人がいます。

しかも大抵の場合、「悪VS正義」の対立です。

 国民の側(正義)VS権力の側(悪)
 真実に目覚めた良識派(正義)VS陰謀を働く左翼(悪)
 子どもの目線に立った教育(正義)VS価値観の押し付け(悪)等々

仮面ライダーウルトラマンじゃあるまいし。




「いじめる子どもが100%悪い」と大人が言ったって子どもに心には届かない。
なぜなら、こども達の大多数は「いじめられる側にも原因がある」と思っているからだ。

(そして、我々大人が今の子ども達のいじめ現場を知るには「スクールカースト概念」が、重要である)と続くのが

私の主張ですが、

 これについても 「子どもの視線」VS「大人の建前論」的に理解しようとする人がいるので疲れてしまいました。




 上記の主張は、いじめている子どもに共感しているのではありません。

 噛む犬の矯正を考えると解り易いと思うのですが、その行為に共感する必要など皆無です。
 いじめる奴を矯正する必要はあるのです。

 「噛んだ犬に共感すること」と「なぜこの犬は人を噛んだのかを理解すること」はまったく異なります。
 前者は矯正に百害あって一利なしですが、後者は効果的な矯正に有用です。
(そんな難しいこと言ってませんよね…)


 いじめっ子がいじめる理由として非常に頻繁に揚げられるのは「生意気だから」「自己中だから」です。

 しかし、教師の観察ではその子の行為が特に変っている訳ではない。むしろ、もっと目立つ言動をし大人から見たら生意気な子や自己中心的な子はいっぱいいる。そこで、いじめられる原因が不明=いじめられるのに理由などない、という思考へと繋がるのが「いじめ言説」の主流派です。

 しかし、スクールカースト論では「カーストを逸脱した行動」は生意気や自己中と感じますから、大人から見れば同一の行動でも、その子の所属するカーストによりクラス内の評価はまったく異なるのは当然、といった解釈が可能になります。

『犯罪は全体で見れば理不尽な行動だが、犯罪者には犯罪者なりの合理性がある。それを踏まえたうえで、処罰、矯正、予防対策を講じるべきである』


 犯罪論なら何の抵抗もない議論が、教育論ではできない人が多すぎます。

 教育論には人の知性を曇らせる魔物がいるのかも知れません。