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遅まきながらチベット問題

 長野での聖火リレーが終わってチベット問題の報道が減ってきている。

 マスメディアにおいては、報道も商品であるから商品価値が落ちれば、露出が少なくなることは致し方ない。
 我々ができることは、その時々に現れた各メディアやそこで発言する人々の姿勢をしっかりと記憶に刻むことである。

 現在のチベットの問題の直接的契機は、1950年に中華人民共和国が樹立され、チベットの領有を宣言するとともに、軍事侵攻を開始したことに起因する。
 領有宣言とそれに引き続く軍事侵攻による領土の確保・拡大は、歴史的にはよくある話であるが、チベット問題の特殊性は以下の点にある。

1 時期が第二次世界大戦の混乱が収束していた1950年の出来事であること

 第二次世界後に事実上の侵略行為により領土を広げた国には、中華人民共和国の他にソ連があるが、それは戦争直後のドサクサにまぎれてのことである。

2 宗教弾圧が2008年現在も続いている。

 ダライラマの写真を踏ませる「踏み絵」など、現代とは思えない宗教弾圧が行われている。

3 自治区の人口が逆転している。

 これにより「チベット独立」は極めて困難になった。
「そのエリアの権力の正当性はそこに住む人民が決定するべきである」という大儀は、西側諸国がチベット独立を承認するために不可欠だからだ。


 以上から、チベット問題の方向性は、ダライラマの主張する「より高度な自治の確立」へと行かざると得ないし、それを支援するのがデモクラシーを指示するものの論理的帰結だと思う。


 この問題でもっともシンプルかつ当を得た主張をしたのは、著名人の中では「いとうせいこう」だろう。

 彼が、アースデイというちょっとイッちゃった系のイベントで発言した言葉を一部引用しておく。


『無抵抗の僧侶を威嚇してはならない
無抵抗の僧侶を殴打してはならない
無抵抗の僧侶を投獄してはならない
無抵抗の僧侶を殺害してはならない
彼らは権力の外にいて、
権力とはまったく別の法にのっとって生きているからである

彼らを威嚇し、殴打し、投獄し、殺害することは「別の法を持つもの」への圧倒的な無理解、圧倒的な暴力であり、つまりは他者の破壊である

(中略)

言論の自由と、報道の自由はこうして、威嚇と殴打と投獄と殺害を防ぐためにある
対話せよと言い、伝え合えと訴えることは、威嚇と殴打と投獄と殺害の目の前に立ちふさがることだ


 この視点を基礎としない全ての報道は嘘っぱちである。