残飯を出したのは吉兆である

船場吉兆が叩かれている。

船場吉兆を叩くのは一向に構わないが、メディアで「船場吉兆」と出ることに大きな違和感を感じる。


船場吉兆の本店に掲げられた「のれん」は「船場吉兆」ではなく「吉兆」である。
大阪人は「船場吉兆」に行ったのではない。「吉兆」に行ったのだ。

東京人も同じだろう。

東京吉兆」に行くという認識などないはずだ。「吉兆」に行くのである。

これが「のれん」というものではないか。


それぞれが別会社だから「吉兆」ではなく「船場吉兆」だというのならば、この世に「吉兆」は存在しない。


吉兆グループによる「とかげの尻尾きり」に皆が無意識に加担しているのだ(最初に「吉兆」から「船場吉兆」へと表現を変えた人間は意識的だと思うが)。


無意識により人を傷つけ、人の悪事に手を貸し、人の責任逃れに加担してしまう。
この世を生きるということは、よくよく恐ろしいことである。