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この「いじめ対策」がすごい その2

 長野県のシンポジウムで、私がこの話を聞いたときに感じたのは
「この先生の実践例を、会場の方々だけが知っておしまいにするのは、あまりにもったいない」ということでした。

 ですから、この記事が大きな反響を呼んだこと、本当に嬉しく思いますし、トラックバック等で紹介してくださった方や、実践に生かそうと仰ってくれた先生方には心から感謝しております。

 また、本ブログのコメント欄やブクマークでのコメントなどで貴重なご意見をいただき、さらに議論が発展している点は、1ブロガーとして嬉しい限りです。

 そこで、改めてコメント欄等の様々な考え方に対する私の意見を、拙書『いじめの構造』(新潮新書)で書いたことや講演等で話している内容も交えて表明しておきたいと思います。これがきっかけでネット内の「いじめ議論」がより高度なものとなり、リアル社会に良い影響を与えることを切に願うからです。

1 理念が整理されていないことによる校内犯罪の放置

 いじめに関する議論が時に錯綜するのは、「いじめ」という言葉の概念が余りにあいまいだからです。

「いじめ」と一括りにされる校内行為には、

(1)「暴力系犯罪(暴行・傷害・恐喝)」
(2)「非暴力系犯罪(ネットでの過度な誹謗中傷・名誉毀損)」
(3)「学術上は犯罪構成要件には該当するが、市民社会では事実上犯罪として扱われていない行為(口頭での誹謗中傷・名誉毀損、ネット上の単発的な誹謗中傷)」
(4)「一般社会でも時折行われている『いじめ』(意図的集団的無視、陰口、攻撃的口調による人格攻撃等)」
(5)「どんな社会にでも起きる軋轢」

理念上、教師が学校プロパーの問題として対応すべき(3)(4)だけであって、(1)や(2)に該当する行為を「いじめ」として取り扱うのは、一種の犯罪隠蔽行為と言わざるを得ません。先に紹介した「いじめ対策」も、日常的恐喝のような悪質な犯罪を、「泣かせて」「謝らせる」だけで済ましているとしたら、やはり犯罪の隠蔽と言うべきでしょう。
しかしながら、現実には地域や人によって教師に対する期待は様々です。田舎の保守的な地域では、まだまだ(1)や(2)についても教師による問題解決を期待しているところもありますし、人権意識の肥大化した親なら、(3)(4)に対して教師が毅然と対処した場合にさえ「人権侵害だ」と非難される可能性があります。また、過保護な親の場合(5)のケースを注意深く見守っていた教師に対して「先生は『いじめ』を放置した」と非難することもあります。

さらに、同じ地域に住む住人が同一の人権意識を有しているとは限らないため、結局のところ教師は、何もアクションを起こさなければ「いじめ放置」と非難され、アクションを起こせば「加害者への人権侵害」という、アンビバレント(二律背反)な立場に置かれています。

※ コメントを下さった方々の議論が時にチグハグなまま進行してしまうのは、ご自身が想定している「いじめ」を経験の中で(1)から(5)のどれかに固定している場合が少なくないのではないでしょうか。

私としては、いじめと校内犯罪が峻別され、校内犯罪については以下のような対処がとられる日が来るのを望んでいます。

「犯罪は警察へ通報する。触法少年の矯正は主として法務省の管轄である。しかし、加害少年が学校に戻ってきた場合、学校関係者は法務関係者と協力してその更正に努める」

「犯罪か非犯罪の判定権はとりあえず管理者としての学校にある。しかし、これは被害者が証拠をそろえて司法機関に訴えることを妨げない。被害者が犯罪事実の証拠をそろえて学校に訴えた場合、学校関係者には公務員として警察に告発すべき刑事訴訟法上の義務が生じる」

ちなみに上記2つは現行法上のあるべき対処であって、法改正が必要といった類のものではありません。※体罰の例を見ても判るように、法が法の建前どおり実行されるか否かは、世の中の「法意識」にかかっています。だからこそ、世論=法意識を変えるために言論が重要なのです。

体罰は戦前から禁止されていましたが、激減したのは昭和50年代からです。ちなみに私は中学1年の担任を除き、義務教育期間中、全ての担任から体罰を受けました。



2 「それは対症療法に過ぎないという批判」が起こすカオスについて

これは『いじめの構造』でも結構詳しく論じたのですが、重要な問題なのでしつこく記しておきます。本ブログで紹介したようなテクニカルな対応に対しては「それは対症療法に過ぎない」という指摘や批判をする人が必ず出てきます。そして、「いじめの起きないクラスにすることが大切だ」とか「加害者は心に傷を負っている場合があり…」といった話が続くのが通例です。

「いじめ」は社会病理ですが、これを生体の病理である疾病に置き換えてみると、このような見解や主張が如何に乱暴で、混乱を引き起こすものかが判ります。

今、病に苦しんでいる者がいるとすれば、まずすべきは対症療法なのです。高熱で命が危ないのであれば解熱剤を投与すべきだし、風邪だって何のウイルスかを調べる前に症状を抑えることは重要です。

しかも、いじめのような社会病理の場合、そもそも根本原因が判っていません。内藤理論は、現在のところ日本で最も説得力のある「いじめ原因論」だと思いますが、それだって一つの仮説に過ぎません。根本原因が不明なのに根治療法は不可能です。今は対症療法をするしかないのです。
 根本原因の探求や事前予防の研究は、極めて重要ですが別の話です。

3 教員(元教員)と思われる人々からの相反するコメントについて

 「目から鱗。実践したい」VS「チーム対応は常識だと思っていた」

という相反するコメントが付けられたことこそが、
『このような例が、蓄積されず、研究対象とならず、伝播していかず、「素晴らしい先生」の一実践の終わってしまうのが、教育界の最大の欠点』
という指摘の正しさを物語っているとは思いませんか。

 では、典型的なコメントに対する感想を述べます。

「参考にします」「実践したい」という趣旨のコメントを下さった方々。
皆様にこの情報を届けることこそが私の思いでした。是非実践に移し、さらにブラッシュアップし、研究会やブログ等で報告してください。

「珍しい手法ではありません」という趣旨のコメントを下った方々
 不勉強のせいで知りませんでした。もし、実践されているとしたら先の中学校の先生同様成功しているのか否か等を教えていただければ幸いです。実践していないとすれば、その理由は何でしょうか?ご教示いただければ幸いです。

「チームで対応することくらい知っているが時間がない」という趣旨のコメントを下さった方々
 貴殿が退職者やもうすぐ退職を迎える年齢ならば、何も言いますまい。日教組的思い出を胸に仲間内で「最近の教員は…」と愚痴でもこぼしていてください。私は教育の正常化を目指して現実と向き合っていきたいと思います。
 貴殿が、もしもあと10年以上教員を続ける年齢ならば、そして続けるつもりがあるのならば、意識を根本的に転換するか、退職することをお勧めします。
 私の知る限り、行政も民間企業もNPOもそして真っ当に運営されている(数少ない)学校も、状況に応じてきちんとチームプレーができています。私が長野の実践で驚いたのは、いじめが発生した場合は軽微な場合でもチームプレーで押さえ込むことに成功しており、その後の処理までがシステマティックに運営されていたからです。
チーム対応=非効率と反射的に判断し、「教師の多忙化」を逃げ口上にチームプレーの手前で立ちどまっている貴殿は、これから生まれ変わるであろう学校現場では百害あって一利なき存在となるでしょう。


4 教員は何故チーム対応が苦手なのか。

 サッカーや野球などスポーツをイメージしていただくとわかりやすいのですが(というか、組織で働いている方なら誰でもわかると思いますが)、チームでプレーを行うためには、チームメイトの基礎的能力や得手不得手を把握しなければなりません。
 しかし、教員の場合、彼(女)の実力が現れる「教室の中での姿」がベールに包まれています。たまに研究授業なので公開することがありますが、所詮は「よそいき」の姿に過ぎません。それゆえ、彼らは互いの実力や個性を職員室での付き合いから推測するしかないのです。
 これでは良質なチームプレーを期待するのは困難です。
 それでも、真っ当な学校(生まれ変わるために努力を続ける学校)は様々な試みを通じて、古い学校文化を打ち破ろうとしています。チームティーチングを導入する、いつでも誰でも授業を参観できるようにルールを変更する、地域にオープンな研究会を開催する等々、努力を重ねている先生方は本当に大勢います。
 彼らに共通するのは、状況によってはチームで対応する方が効率的であるという(社会人なら当たり前の)常識があるということです。
 現在の教員(とりわけ中高年教員)はチームプレーが苦手な人が少なくありませんが、人材の新陳代謝により必ず学校文化はまともになると私は確信しています。


5 この対策のどこがすごいのか

 1で記したように、私は犯罪者の対応は警察がするべきだと思っています。また、数年前に「いじめ自殺」という不幸な事件が相次いだために、警察も学校の通報によって対応するようになっています。
 しかし、校長がヘタレな学校や教育委員会がヘタレな地域、住民意識が「昭和な」地域では、校内犯罪も「いじめ」で済まされるというのが現実です。先に紹介した先生方が「いじめ」と「校内犯罪」を峻別していたのか、双方に同じ対応をしていのかは不明ですが、仮に「校内犯罪」を「泣かせて謝らせて」終わらせていたとしても、私は彼らの実践を素晴らしいと思いました。

 いじめ(実際には校内犯罪も)が起きた時の教師の役割は多岐に渡ります。
少年犯罪における警察官(加害者の特定、加害者の拘束、被害者の一時保護)、家裁調査官(審判に必要な調査)、家裁裁判官(審判)、法務教官(加害者の矯正)の役割を一手に期待されているのが、まだまだ日本社会の実情です。

現実が「べき論」と異なる場合も諦めることなく最善を尽くす、それが大人というものでしょう。先に紹介したいじめ対策は、「いじめ」だけでなく「校内犯罪」にも有効です。今、この時間にも「いじめの被害者」や「校内犯罪の被害者」が放置されています。それが学校の現実ではないでしょうか。

 その中にあって彼らは賞賛されてしかるべきである。それが、私が抱いた感想でした。

 
6 ゼロ・トレランスについてどう考えるか

laclefdorさんが紹介してくださった、

最初に基準を明示しておき
初犯:昼休み抜き
逆恨みしてもう一回いじめた場合:放課後居残り
もう一回いじめた場合:停学
もう一回いじめた場合:少年裁判所
もう一回いじめた場合:退学
という風に、罰がエスカレートするという手法を
ゼロ・トレランス」と呼びます。

 校内暴力で荒れていたアメリカの学校は、この手法によって画期的に立ち直りました。現在、文部科学省において導入を検討しているようです(少数派のようですが)。

 私は、皆様が指摘しているように日米では文化が違う(教師の社会的地位、オルタナティブスクールの認知度、契約社会かあいまい社会かなど)ので、アメリカのゼロ・トレランスをそのまま適応することは困難だと思いますが、日本型にカスタマイズして導入するのはありかなと思っています(カスタマイズの方向は現在模索中です)。

 ということで、中長期的な認識としてはlaclefdorさんに近いところがあるのですが、5で記したように、現実の教師は「今、いじめられている被害者」「今、校内犯罪にあっている被害者」を救わなければならないのです。

※ ちなみに、義務教育の場合に退学されることは不可能ですが「強制転校」といった処置はありかなと思います。
※ もちろん、単なる厳罰主義はシロクマさんが指摘されるように社会の治安悪化を招きかねないので、矯正に重点を移した特別支援学校を設置し、校内犯罪者や悪質ないじめ常習者はそちらへ強制転校させ、みっちりと矯正する必要があるでしょうね。

7 いじめ議論を冷静に行うために

 いじめについては、多くの人が被害経験や加害経験を持つため、議論から理性が失われがちです。本ブログのように、実際の被害者が存在しない場合にはそれでも結構なのですが、現実のいじめ現場に出会わした時にそれでは困ります。

 理性を失い議論が拡散する事態を防止するために私が講演などで提唱しているのは、議論の順序をしっかりと守ることです。その順序とは以下のものです。

(1) 被害者の救済
まず何よりのこれが最初です。この段階で「加害者も心に傷を負っている」といったことを訳知り顔で言う人には、「その議論は後でしましょう」とピシャリとやっちゃってください。
(2) 加害者の処罰
多くの教師(とりわけ校長)が逃げたがる議論です。そしてすぐに(3)にいこうとするのです。しかし、再発防止のためにも被害者の精神的救済のためにも、この議論から逃げるべきではありません。
(3) 加害者の更正
本の学校には、更正施設的役割が強く期待されています。先生たちもここの部分の議論は大好きです。「心に寄り添う」ってやつですね(でも、加害者の処罰から逃げるために、これを優先させている先生も少なくありません)。
(4) 再発予防
再発予防の第一は、「〇〇学級において何が起きたのか」を保護者にしっかりと伝えることです。

 以上、長々と私見を述べましたが、お付き合いいただきありがとうございました。