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芸術における難解性の意味

ひょんなことから羊屋白玉さんの舞台を見ることとなった。

共演者は、その他に真珠子、おやつテーブルといった人たち。

私は、この作品を見るきっかけになったバーバラ村田さんと元紫ベビードールのマチルダさん以外、
誰も知らなかったのだが、この世界では有名な人達のようだ。

なにせ、羊屋白玉さんはニューズウィーク誌が選んだ世界が認める日本人100人の中に入ったことのある人らしい。


しかし、そのパフォーマンス。私にはまったく理解できなかった。
言っていることが深いの浅いのといった類ではなく、何が言いたいのか、何を伝えたいのかまったく理解できないのだ。


4作品のオムニバスなのだが、最初の作品は「死んだウサギ」と「死んだスカンク」の死後の世界だった。

途中から作品を理解することをあきらめ、ずっと「芸術における難解性」とは何かを考えていた。



自然科学の世界は60億の凡人よりも、1人の天才が正しいことを発見できる世界である。

私の住む言論の世界はそうではない。
難解すぎる文章で作者しか理解できないとすれば、その言論は限りなく無価値である。
理解してくれる人が一定数以上いて、その理解する人達が社会からインテリと認めれている場合のみ、
その言論は高価値なものとみなされる。
理解してくれる人が一定数いても、理解する人達の知性や地位に対する社会的評価が低いと、
「自己満足で独りよがりな文章」扱いである。
もちろん、その逆でクズみたいな文章でもファンがたくさんいれば流行作家ということで、一定の評価を受ける。
言論はどこまでも他者あっての存在である。


では、芸術はどうか。
自然科学のように誰一人理解できなくても「真実がある」のか。
そうじゃないだろう。

では言論と同様、「レベルの高い分かる人」にだけ分かるものが高価値なのか。
しかし、果たして芸術における感性は、
言論における知性のように(「いかがわしさ」や「曖昧さ」を内包しながらも)
高低をつけることができるのだろうか。

一定数の「見る人が見ればわかる価値の高い芸術」と、「自己満足で独りよがりなパフォーマンス」に境界はあるのか。

そんなことをずっと考えていたら、3時間弱があっという間に過ぎた。

考察のきっかけを与えてくれただけでも、2200円の価値はあったのかも知れない。

でも、私は同じアングラなら「あやちクローデル」の歌の方が好きだ!