2008-05-01から1ヶ月間の記事一覧

吉兆はこれからが正念場である

船場吉兆は大方の予想どおり廃業した。しかし、吉兆の危機はこれからが正念場である。教育問題と直接関係ないのだが「吉兆問題」が気になって仕方がない。多分「大阪のすし屋の息子」の血が騒ぐのだろう。 大阪の料理人にとって、吉兆の創始者である湯木貞一…

残飯を出したのは吉兆である

船場吉兆が叩かれている。船場吉兆を叩くのは一向に構わないが、メディアで「船場吉兆」と出ることに大きな違和感を感じる。 船場吉兆の本店に掲げられた「のれん」は「船場吉兆」ではなく「吉兆」である。 大阪人は「船場吉兆」に行ったのではない。「吉兆…

見てみぬふりをする人たち

いじめを見てみぬふりをする人は加害者である。一昨年、いじめが社会問題になった際に流布された最もくだらない戯言である。我々大人は、多くの不正義を見てみぬふりをして日常を過ごしている。 どんな不正義にも見てみぬふりをしない者は、この世知辛い世の…

遅まきながらチベット問題

長野での聖火リレーが終わってチベット問題の報道が減ってきている。 マスメディアにおいては、報道も商品であるから商品価値が落ちれば、露出が少なくなることは致し方ない。 我々ができることは、その時々に現れた各メディアやそこで発言する人々の姿勢を…

文章とは覚悟である

書物のような一方通行の文章で自分の想いを伝えることは難しい。読者の感性に訴えると感性の合わない人には理解されない。 『戦後民主教育で失われたもの』(新潮新書)がそうだった。読者の知性に訴えると知性の低い人には見向きもされない。 『いじめの構…

活字アレルギー

今年に入って、ほとんど活字アレルギー状態です。 去年が活字中毒だった反動かも。 本を読む気も、文章を書く気も全く起きません。ということで、いろんな人に不義理をしています。ようやく気力が出てきたので、とりあえずブログを再開します。