『いじめの構造』で一番訴えたかったことは、「いじめ」と「校内犯罪」の峻別です。
世のいじめ論を2つのステレオタイプに峻別するならば、
A「いじめ」は重大な人権侵害である。だから「いじめ」は根絶しなければならない。
というタイプの主張と
B「いじめ」はどんな世界にもある。だから「いじめ」に打ち勝つ強い人間を作らなければならない。
というタイプの主張に分けることが可能です。
私は『戦後教育で失われたもの』で「いじめのある学校を認めろ」と書いたくらいですから、基本的には
Bタイプに属します。
しかし、Bタイプの主張をする高齢文化人たちと一緒にされては困ると思うのです。
これは、今までもずっと感じていた違和感でした。
はっきり言って彼らは学校現場を知りません。
現実を無視した人生観の押し付け的言論に私は何の価値も感じないのです。
オールド保守派が致命的にダメな点は、
Bタイプの主張を正当化するためには、
市民社会で犯罪として処理されている暴力・窃盗やインターネットでの誹謗中傷が、学校でおこっているだけで「いじめ」として処理されている異常事態を正さなければならない。
ことを失念している点です。
オールド保守派の人たちが現役だった時代と、平成の現代では世の中の環境はまったく異なります。
殴られて我慢しなければならない職場など、今はほとんどありません(もし、あれば直ちにその職場を改善すべきです)。
ものを盗まれて警察に訴えたら非難される地域社会など、とっくに過疎化しています。
日本もようやく犯罪が犯罪として処理される法治社会に向かって走り出したのです。
だとすれば、学校でも子どもが犯罪にまで我慢する必要、耐える必要、個人で打ち勝つ必要などないのです。
むしろ、いじめムードに流されて犯罪を犯すような子どもたちこそ、しっかりと矯正しなければならないのです。
なぜなら、そんな奴は、企業犯罪に簡単に取り込まれるからです。
世の変化についていけず、暴力的ないじめが企業や村に存在した昭和の意識のまま、子どもに「強くなれ」と主張する時代錯誤な言論は葬らなければなりません。