後藤和智氏の書評

私は、本を書くときは特定の読者群を想定する。

例えば「授業の復権」は、現役教員と教育学部の学生だった。

現在、「授業の復権」は、いくつかの大学の教員養成授業で使われており、この目論見は見事に成功したことになる。

この点「いじめの構造」は、極めて特異な本である。

通常ならこの手の本は「いじめられている被害者」や「いじめられている子を持つ親」であろう。

しかし、私は彼らをあえて想定読者からはずした。

そんな本は、世の中に腐るほどあるし、何より彼らを想定読者にするとクールな分析が不可能になるからである。
いじめの渦中にある人の詠む本ではないという思いは今でもある。


それゆえ、「エンゼルハート」というインターネットTVに出た際には、

「シビアなことが書いてあるので、今いじめられている渦中の人は読まないでください。いじめという現象を冷静に読み解くだけの余裕ができた後に読んでください」

と呼びかけた。



では、誰が想定読者かといえば、それは「レベラルで、インテリで、頭脳の若さを持っている人」である。

私は自分自身を保守のポジションにいると思っているが、時に「リベラルな者が歩み寄れる内容」のモノを書けなければ言論者としての存在意義はないと思っている。

保守派が、保守や右翼の中だけで「日本は立派だ」「左翼はバカだ」と書き、それを同じ思想傾向の方に読んでもらっても、それだけではただの「仲良しクラブの日記回し読み」の域を出ない(当然リベラルや左翼にも同様のことが言える)。

討論と妥協を基本原理とする近代デモクラシー社会にあっては、立場の異なる者に理解できる言論こそが、一段上の価値を有するのである。

だから「リベラル」を想定した。しかし、立場の異なる者の主張を虚心坦懐に聞けるのはインテリで、かつ頭脳がやわらかくなくてはならない。そこで、知的で頭脳の柔らかい人を想定読者としたのでる。

具体的には後藤和智(「ニートっていうな」の共著者)を想定し、「いじめの構造」を書きあげた。

執筆中も何度か彼ならばこれをどう評価するだろう、という想いが頭によぎった。


そんな彼がBK1に書評を書いてくれた。

和田秀樹氏が書評を書いてくれたときとは別の、しかしそれに勝るとも劣らない感慨があった。



タイトル:「本気の大人」になりたくない人のための「いじめ学」入門

 あの日の喧噪を、我々はもう忘れつつある。
「あの日」とは、平成18年10月頃、とある学校で「いじめ」を原因に自殺した人が出た、ということが報道されてから、多くの番組で「いじめ自殺」が採り上げられ、特番もたくさん組まれ、またかの悪名高き教育再生会議が、これまたお粗末な「緊急提言」を出して、多くの専門家、準専門家の失笑を買った(ちなみにこの「提言」は、本書でも嘲笑されている)。
 「いじめから子供を救おう!」と叫んだり、あるいは「現代のいじめはこんなにも酷くなった」と嘆いてみせたりする「本気の大人」たちの姿を、新聞、テレビ、雑誌などで見ない日はなかったほどだ。
 それから数ヶ月経過した現在、もはや「いじめ自殺」を輝かしい目で語るものは誰一人いなくなった。青少年の自殺が微増した原因を「いじめ自殺」と安易に結びつけるような報道があったり、あるいは「いじめ」に関して安直な便乗本(そしてそれは疑似科学本でもある)を出すような自称学者がいたりするけれども、嵐は既に去った。
 そんな中上梓された本書は、まさに「本気の大人」たちの安易な言説とは一線を画し、「いじめ」を社会学、心理学的に捉えるための足がかりとして、極めて貴重な文献に仕上がっている。
 本書は基本的に、前半と後半に分けることができるだろう。前半は、主として複数人の専門家による「いじめ」言説を、著者がある程度独自に組み替えるなどして、現代の「いじめ」を読み解こうという試みだ。援用されている学者は、藤田英典内藤朝雄、森田洋司などで、彼らの議論を発展的に継承しつつ「いじめ」を論じようとする本書第2,3章は、まさに本書の白眉である。
 もちろん、既存の議論に対し、最近話題となっている概念を適切に付加することも忘れていない。ここで付加されている概念が、平成19年頃より話題となった「スクールカースト」概念で、学校内や職場内の狭い社会において、学力というよりもコミュニケーション能力などの「総合的な能力」の高低によって地位の高低が決まってしまう、というもので(詳しく説明するのは難しいが、あいにくこの概念の説明に特化した本はない。なので、これの背景を述べたと思われる、本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』(NTT出版)を参照されたし)、この概念を藤田英典の「いじめ」言説に結びつけることによって、よりフレキシブルに「いじめ」を説明できるようにしている。
 このように、通常はなかなか世間に伝わりにくい概念を、ある程度簡略化、あるいは汎用化することによって、広く伝えることこそ、本書のもっとも大きな役割だと思う。ある自称を論じた言説に対し、それに学術的な概念でもって批判するということは、短絡的な言説の流行に水を差すと同時に、長期的な視座をも与えてくれる。
 第4章は「いじめ」が隠蔽されるメカニズムを説明する。本章に限ったことではないが、若い教員に対する上司の嫌がらせ(特に日教組系の。ただ、これについては著者が日教組を批判するために意図的に偏った採り上げ方をしている可能性もあるので、割り引いて読む必要がある)の事例は、読んでいて気持ち悪くなる。第5章の「いじめ」言説への批判は痛快。「いじめ」を受けたことのある身としてこのようなしたり顔の言説に対する批判は実に頼もしい。ただ、最後のほうで藤原正彦やらTOSSやらを持ち上げているのは、個人的にはやや減点対象だが、本書全体のクオリティを落とすようなものではないだろう。まさに「いじめ学」の入門書といえる本書は、多くの人に読まれて然るべきものだ。