疑似科学についての考察 その5

今回は、なぜ人は疑似科学に魅せられるのかについて述べます。

結論から述べれば、「心の安寧を科学に求めるから」です。

現代人が、このような心性に至ったターニングポイントは3つあります。

以下説明しましょう。

まず、第1はデカルト哲学の登場です。

デカルト自身は敬虔なクリスチャンですが、それまでのスコラ哲学が真理を信仰により見出したのに対し、デカルトは(神が創りたもうた)真理を理性により見つけるという思考スタイルを確立しました。「何一つ確かなものはない。しかし思考する我の存在そのものは否定できない。つまり『我思うゆえに我あり』こそが第1の真実であり、そこから全ての真実を演繹により見出そう」とする思考スタイルです。
このデカルトの思考スタイルにより、科学の基礎が出来上がりました。

第2のターニングポイントは進化論の登場です。

デカルト登場時には存在した、「キリスト教信仰」と「科学的思考」の蜜月は進化論の登場によって決定的に破綻します。進化論の登場により人は「科学を信じるか宗教を信じるか」という問題に直面します。この問題は現代アメリカでも深刻な問題であり、南部では聖書の書いてあることをそのまま信じる人々(キリスト教原理主義者)の方が数の上では優勢なくらいです。
しかし、多くの人々は「科学的事実」と「信仰」を分離し両方を信じるという態度を結局は選択します。しかし、このとき「神は死んだ」(ニーチェ)のかもしれません。少なくとも絶対的な存在ではなくなりました。
ここに現代人(現代西洋人)は、
絶対神キリスト教の神)を絶対的に信じることができない』
という絶対矛盾を背負って生きることになります。
その心の空虚を埋めたのは科学への絶大な信頼です。

そして最後のターニングポイントは第2次世界大戦後の「科学の失墜」です。

 科学により原子爆弾が製造され、科学により公害が生まれました。それまで絶大な信頼を寄せていた科学は人を幸せにしない(するとは限らない)という現実に現代人は直面します。
 その上、何が科学かさえ怪しくなってきます。何度も登場したカール・ポパーに限らず、多くの科学哲学者たちは何とか科学を定義しようとしました。しかし、厳格に科学を定義するば「伝統的な科学」が科学でなくなる、寛容な定義をすると疑似科学も科学に含まれてしまう、というジレンマから今現在も抜け出さずにいます。
 さらに、真っ当な科学者ほど、様々な問題にたいして明言を避けます。ところが疑似科学者は、世の中の諸問題にいとも簡単に答えを出してくれます。
 かくして現代人は、近代以前は宗教に求め、近代初期には科学に求めた心の安寧を疑似科学に求めてしまうのです。


 科学は現代人に心の安寧を与えません。なぜなら、科学的正しさは限られた条件下の暫定的正しさに過ぎないからです。この中途半端さに耐えて生きることこそが、現代人の素養なのです。
 これは近代デモクラシー国家の住民に求めれる素養=討論と妥協による(それゆえ誰にとっても100%満足できるものではない)政治的到達点を受け入れる態度と同型です。


 では、この中途半端な状態から現代人を救うものは何でしょうか。


 私は多様な哲学と宗教であろうと思っています。
 つまりAさんにとっては「哲学α」が、Bさんにとっては「哲学β」が、Cさんにとっては「宗教α」が、Dさんにとっては「宗教β」が、この中途半端さ、気持ち悪さから救うのです。そして、この相対性と多様性を受けれることこそが、現代人に求められる態度であると私は確信しています(その意味で私=森口は保守主義者であると同時にガチガチのリベラリストでもあります)。

 このように考えると、疑似科学を信じ同時に全体主義者でもある現代のマルキストたちが、教祖マルクスの「宗教は阿片である」という言説を未だに墨守する理由も氷解するはずです。彼らは、この中途半端さと多様性に耐えられないのです(これは左翼崩れの右翼にも当然当てはまります)。