近づく世界のメンタリティ

いつもシニカルな視点でモノを言っている(書いている)ので、たまには楽観的な視点から。


日教組』でも書いたのですが、本来、人権思想は信仰心(キリスト教信仰)と切り離せないものでした。
ところが、日本では無神論者である共産主義者たちが、資本主義道徳を潰すために「偽りの人権思想」を語り、不勉強な保守派がそれを前提にして「行き過ぎた人権」などと批判するようになりました。


我が国における「人権概念」の混乱はまさしく極左と不勉強保守派の共同正犯です。

私は、今後も比較的原理原則論の観点から批判していくつもりですが、長期的には実はもう一つ別の動きを期待しています。

それは世界のメンタリティが(多少ですが)近づいていることです。

例えば、ソ連なきあとの無神論者の盟主である中国においては、さすがに信仰をダイレクトに肯定しませんが、近年、孔子儒教の見直しがブームになっています。もちろん、中国共産党とすれば儒教の「忠」だけを国民に植え付けたいのでしょうが、そううまくいくとは限りません。徳川光圀によって称えられた尊王思想(水戸学)が、結局倒幕思想へと収斂したように、儒教に始まる道徳の見直しが、マルクス主義の建前を捨てきれない共産党を打倒するやもしれません。
中国商人の神様、関羽を祀った関羽廟も盛況のようです。

アメリカは今でもガチガチの宗教国家ですが、教会に行く人々の数は減り続けています(テレビ伝道は相変わらず流行っているみたいですが)。

ドイツは、中世さながらに政府が教会の代行として教会税を徴収する国ですが、その税収が減ってきて教会を困っているという情報もありました。

我が国日本は、左翼に牛耳られたせいで、多くの人が自分を無神論者だと思わされてきましたが、中高年左翼の苦々しい顔を横目に「お伊勢まいり」や「スピリチュアル」が若者達の間でに人気です。


つまり、世界は「もやっとした」「アバウトな」「いい加減な」信仰心の時代に突入しようとしているのではないでしょうか。

そうなると、クリスマスにディナーを食し、仏教で葬式を行い、正月に初詣行く我々こそが世界標準になるというのも夢ではありません。
そして、世界標準の「信仰心」の派生原理として世界標準の「人権思想」が逆輸入され、自分が傷ついたら即「人権侵害」、結婚にちょっとでも反対されたら「人権侵害」、就職が上手くいかなかったら「人権侵害」などという阿呆が駆逐されることを切に願っています。