原点

ふと、自分が本を書き始めた原点を思い出した。



学校関係者や教育学者、教育評論家が発信する情報が嘘ばかりだったからだ。

一人の公務員として、これほどまでに公的な情報を信じると子供をダメにする状態が許せなかったのである。


もちろん、教育以外の行政分野だって嘘はまかり通っている。
しかも、(自分も含め)役人たちは堂々と、かつ巧妙に嘘をつく。


それでも、私は耐えられるのは、嘘の方が少ないし、嘘をつく時だって「住民がパニックになってはいけない」「行政として今の段階では対応できない」等、役人なりの言い分があるからだ。



しかし、教育関係は違った。
嘘に何の「言い分」もなく、現場の教員には何の発言権もなかったので、「自分たち」が嘘をついているという自覚さえなかった。

嘘をついているのは「文部科学省」や「教育委員会」なのだ。



だから、彼らは「ゆとり教育」を推進しながら、我が子だけは「小学校受験」「中学受験」で公立から逃避させた。
そして、そのことに「迷い」も「躊躇」も「良心の呵責」もなかった。


私には、教員のこの感覚が理解できる。


彼らにとって文部科学省教育委員会は、どこかのお偉い他人様なのだ。


だから、そいつらが国民・住民を騙して、子供をお馬鹿にしろといい、その手先に過ぎない校長がやれというなら、子供がバカになると分かっていても、仕方なく「ゆとり教育」を実施した。



あの時の空気を知っているものとして、彼らを責めるつもりは毛頭ない。


ただ、自分にはそれを黙って見過ごすことができなかっただけだ。



お受験を経た私立や国立の小学生と公立の小学生では、比べ物にならないほど前者の方が優秀だ。


中学受験の塾に通わない公立小学校の児童は、ほとんどが落ちこぼれる。


トップクラスの公立高校に通う子供でも、その中で一流大学に行く子の多くは中学受験失敗組か、私立不合格組である。



公立学校の教育を早い段階で見限った子供ほど、その後の人生を楽に有利に進めることができる。


教員は、全体像を把握していないが、経験値としてそれを知っている。


だから、職務とは裏腹に自分の子供は塾に通わせていた。



私は、この嘘で塗り固められた、しかし現実を知るまでは(一生知らなけらば一生)平穏な「青少年保育園」が許せなかった。


あれから世論も変化し、今では「ゆとり教育」を肯定する者は少数派だ。

それを推進した寺脇研氏は文部科学省を追われた。


お受験に対する偏見だけは相変わらずのようで、それをテーマにしたドラマが流行っているとか。


だが、ここまで情報網が発達した社会で、そんなものを信じる馬鹿を相手にするつもりは今の私にはない。
ただ、お受験をする子供たちには、マスコミ関係者の子弟がゴロゴロいることだけは指摘しておこう。